この文章は、被災地である南三陸町へ個人的に出かけてきて、自分の中学校の職員に報告するためにおこしたものです。
現地の様子を広く伝えることは意味があることであると判断し、個人情報や公にしては良くないだろうという情報を削除し、すべての写真の解像度を大きく落としてここに公開します。
一太郎で作った文書を一太郎でhtml保存して、少し修正してあります。
☆ここは教育関係者が見ることが多いと思うので、参考のために掲載します。写真も微妙と思いながら残しているものもあります。2次使用はしないでください。これはいかんだろうというご指摘は、メールでください。削除します。また、なにかお聞きになりたいことがあればメールで。

<<まったくものに関わっていないけれど、ここに・・・・・>>

宮城県南三陸町へ行ってきた報告
~志津川中学校への47時間~

 
はじめに
 大震災後,3ヶ月が経過した。テレビや新聞,インターネットでの情報から今回の東日本大震災は自分が物心ついてから最大のものであると思う。同じ日本に生きる自分もなにかできることはないかと考えてはいたものの,実際にしたのは信頼できるであろうと考えた日本赤十字への募金くらいだった。その赤十字も調整などをしていて配分も始まったばかりのようで,その流れは私たちにはあまり見えてこない,それならば直接,中学校へ届けるのがよいとおもった。
 また,初動の時期が終わった今,専門家が自分の仕事をこなす段階に移行しているとすれば,自分の専門である教育に携わる身として,何ができるだろうと考えた。現地で欲しているものは何なのか,考えてもよくわからないので,とりあえず行ってみてみることにした。
 
経過と行動
日程と訪問場所の決定まで
・6月に入って,月歴をみながら中体連の振り替え休みなら学校もやっていてちょうどよいかと考えて,12日(日),13日(月)の2日間とする。
・場所は,今後生徒が関わる可能性もあることを考え,放射能の影響のない被災地として,南つながりで「南三陸町」を考え情報を集める。教頭先生・校長先生に連絡してもらうと志津川中学校で訪れることの了解を得ることができた。(戸倉中(規模が小さすぎてあわないだろうと学校より返答,教育委員会の担当者を紹介していただく)>教育委員会(独自に学校へ連絡してもよいとの許可)>志津川中学校)
当日まで
・教材を搬入に来てくれていた(有)イマザワ社長に話しをすると,自分も教育に関わる企業として何かをしようとしていたとのこと(実際,地元の議員やホテル組合などに呼びかけていたが動きが生まれなかった),一人じゃ運転も大変なので一緒に行っていただけることになった。
・とりあえず,今回は取材をして,つなぎを作るのを目的とする。今回は生徒、町への支援は考えない。生徒のためでなく同じ教職員仲間として先生方へのお土産などを考える。
・前日,中体連の慰労会にて教頭先生が参加者に呼びかけをしてくださり,2万円少しのカンパが集まる。
 
当日の動き
11日
23:00 慰労会の後,イマザワさんと連絡をしてみどり湖PAにて合流
12日
3:00 新潟を回り郡山ジャンクション,東北道へ
4:45 仙台南ICをおりて宮城へ向かう 途中通行止めもあり迂回
6:00 道の駅「津山」
7:00 志津川中学校着 周辺を少しみると2階の職員室で声がするので行ってみると菅原校長先生が泊まり込んでいて対応してくださる。カンパ金をお渡しし,本日の日程を聞いて,いったん学校を離れて近くの山でカップラーメンの朝食。少しお昼寝。
10:30 もう一度学校へ,菅原教頭先生や他の先生にもお会いする。ジュースやチョコレートなど持ってきたものをお渡ししてからPTA総会に参加。校内も少しみて学校を出る。
13:00 朝と同じところでお昼ご飯,スパゲティーをゆでて食べる。
14:00 被災地を見て回る。気仙沼市へ入ったところまで行き,もう一度南三陸町へ,その後山側の登米市へビジネスホテルを探して高齢な2人の宿泊場所を確保,食事をする。若い専務と2人で再び南三陸町へ。公園「ひころの里」の駐車場で夕ご飯を食べる。
20:00 就寝
13日
6:00 朝ご飯(カップラーメン)を食べる。7時ごろ出発
7:15 志津川中学校着 職員室の教頭先生にあいさつをして当校の様子をみる
8:10 職員朝会で校長先生より先生方に紹介していただく。
8:30 生徒集会,壇上にあげていただき生徒にご挨拶
9:00 授業参観,全クラスを一人で少しずつ見せていただく
9:45 学校を出発。校長先生にお土産までいただいてしまう。
10:30 登米市着,宿泊した2人と合流,すぐに帰路につく
11:20 築館ICより東北道へ
13:00 国見SAで昼食
15:00 郡山ジャンクション
16:50 新潟ジャンクション
18:30 上越ジャンクション
20:10 みどり湖PA 菅原校長先生へ電話
20:50 帰宅
 
様々な出会いと得た情報・自分が感じたこと
南三陸町

まさに壊滅状態。車が通るところだけ道がきれいになっている。

よく映像に出されている役場庁舎,このアンテナだけ津波の上に出ていたところ。
 


菅原校長先生曰く,これでも10倍(100倍とおっしゃったかも)きれいになった。当初はがれきで移動もできなかった。完全に閉じ込められていた。自衛隊ががれきをどけてくれて移動ができるようになった。
 
















津波が襲った部分と免れた部分で全く別の状態になっている。
 
























 登米市ホテルの女将さんが,私は具合悪くなりそうで,とても見に行けないといっていた。
 車などはナンバーが外されていたが、そのまま放置されている。
合同庁舎前にはがれき置き場の看板があってスクラップの車や鉄骨などが集められていたが,周辺もスクラップ置き場と何ら変わりない状態。おそらく道の上にあったものだけを集めたのだろう。
 日曜日の時点では船や車、がれきや鉄骨などを片付けている姿は見られなかった。ちょうどこの日は被災者向けの無料バザールが行われていることもあったり、そろそろ日曜日くらいは休みましょうと言うことであったりすることがその原因かと思われる。
 月曜日にはかなりの人ががれきの上を移動していた。
 信号は一切ない。
 
この様子は,平面の写真を通じてはなかなか伝わらないと感じた。
志津川中学校
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
・標高52mのところにあって難を免れた。(自転車置き場が22mでそこまでは津波が来た)
・以前教育長が多くの反対を押し切って,下にあった中学校をこの高台に移転したという。
・315名中 167名が家を無くしている。
・現在244名の生徒が学校へ通っている。
・生徒の命はすべて救われた(当日7名の欠席者がいた,1週間かかって全員の生存が確認できた)
・12名の生徒が親を亡くしている。

  学校のテラスより南三陸町を見下ろす。
 
・現在学校は避難所になっている。最初は学校が避難所を運営していたが,現在自治体の管轄になっている。
・電話とFaxは使えるが,インターネットは使えない。電話も無線の臨時施設がテラスに設置されていた。(まだ有線での接続はできない様子)
・PTA会費,学級費は徴収しない。
・現在徒歩以外は全員バス通学,下に降りたところのコンビニエンスストア跡のがれきを撤去し,駐車場にしている。
















現在校庭には仮設住宅が建てられている。
自衛隊も沖縄からの部隊が1ヶ月のスパンで交代交代来ている。(あと数日で帰還)
自衛隊は,補給の任務だが,草刈りをしてくれたり,朝あいさつでみんなが出てくれてとてもありがたい。
(隊員に聞いてみると,来るときはオーストラリア軍が空輸で運んでくれた,帰りは船らしいとのこと)





















































 校内にはいろんな場所からの応援メッセージが掲示されていた。外国が多い。
 大乃国たちがちゃんこを作りに来てくれた。
 卒業式に歌を歌った関係でエグザイルから色紙が

生徒のみなさん (写真にはぼかしを入れ掲載)











 














・登校の様子,自衛隊が並んでハイタッチをしている。
・いろんな生徒がいるのは本校と同じ
・制服がまばらなのは,ちょうど移行期間だったのが主な原因らしい。



























・授業参観より,理科も含め全クラス教室で授業をしていた。
・わりと気軽に発言ができる生徒たちだった。

窓の外には壊滅状態の南三陸町が見える。どのクラスも、今年になって作ったと思われる学級目標が張り出されていて、日常の生活として学校が回っている感じがする。
(写真割愛)
関わっていただいたこと
  日曜日の朝7時過ぎに,泊まり込んでいた校長先生と。
カンパはちゃんと届いていますの図。(写真省略)














月曜日朝,玄関前にて
この後,職員朝会で校長先生から先生方に紹介していただく。
「不審な人ではありません。」
「今朝一緒に登校指導をしていただきました」とまで。
「今後の交流のために来ていただきました。」>その後,あまり難しくなく,気軽に,そして先生達もと話しをいただく。














その後生徒集会だったが,校長先生に呼ばれ壇上へ20秒でといわれ自己紹介。
 長野は遠く、こちらのことがわからないので見に来たことを伝える。信毎での扱いを見せようと思って持って行ったが、時間がないので割愛。生徒の今後については何もふれなかった。
AETのご両親も心配して同じ日に来校。ココナッツを持っていったので受け取っていただく。
校長先生が持っているのは40年前の技術・家庭科で作ったラジオ
帰り際,1時間目空きの先生方と写真を撮らせていただく。
一番右が教頭先生。

(写真は割愛)



菅原校長先生とのお話から得た情報
支援について
・各種団体から様々な支援を受けており、現在物的なものはこれ以上必要ない。
・必要なものは学校支援ポータルサイトで申し込むと2,3日で届く。
・南島原市より支援員の派遣を聞いた。夏休みに先生方の代わりができるよう(先生方に休んでもらえるよう)3年生の補習要員などとして派遣の予定。
・アースというNPOのかかわりがある。
・チリの大使館からも支援を受けた。
・大乃国のいる柴又部屋が電話をよこして、ちゃんこをふるまってくれた。実際にきてくれた。
・東京都庁の職員もきてくれた。これは勤務としてきてくれたらしい。
・修学旅行をどうするか。
・6月からパンと牛乳に加えて、パックのおかずも出してもらっている。
・しかしパンは飽きたのでご飯があるといいなぁ。
・中体連に参加するための足(マイクロバスとか)があるとよい。
・水がなくても消毒できるスプレーはタイムリーな支援だった。
・ガソリンがくるまで、ソーラー発電機があると良かった。
・サンヨーからの充電ライトの支援はありがたかった。
・ワンショットでの支援は必要ない。
・これからの未来のために生徒同士でのつながりがあると良い。(一方的な支援は必要ない)
様子について
・職員は26名中9人が被災している。新築5年以内の家が流されている。
・校長先生は気仙沼より車で通っている、ご自分の自宅も被災。
・現在まで登校日数52日、そのうち教頭先生学校へ45泊。校長先生25泊。
・親を亡くした生徒12名、あしなが基金へ申請して20万円がおりる。
・現在244名の生徒が登校している。すこしずつ避難先から戻る生徒もいる。
・最初の2週間、紙コップでご飯を食べていた。ティッシュで拭くだけで再利用していたが、その後使い捨てにした。幸い食中毒などでなかった。
・トイレが使えなかったので、職員がツルハシで穴を掘って大便用にした。中の便器は小便のみだが、間に合わなくて使ってしまう人もいるので、ペットボトルを斜めに切ったうんちさらいのスコップは良かった。
・ここは当初一時避難所になっていた。(避難場所ではなかった)
・それでも当初は学校が運営して避難所をまわしていた。校長室は新生児のための部屋になっていた。
PTA総会にて校長先生の話
(すべて割愛)
 
朝の生徒集会にて
(すべて割愛)